2020年06月07日(日)

   5月の終わりから日常が少しずつ戻ってきた。
   買い物も車で市外に出て楽しめるようになったし、知多半島まで海を見に行く気持ちにもなった。
   これらのことは以前にもやっていたことで変わりはない。

   違うのは、公共交通機関である地下鉄や鉄道での移動が億劫になったことだ。
   人で賑わう場所が嫌いになったり、イベントやお祭り,ギャラリー巡りなどに興味がない。
   どうやら本来の性格である「ひとりでいること」に戻ったようなのだ。
  


コロナの真っ最中には、行動制限だけでなく心も内向きになっていた。
そんな中で近年にないほど元気だったのが植物だった。
自分でもできる簡単な庭づくりが面白くなったのだ。

かって好きだった庭仕事だが、昔のような体力は無いので工夫がいる。
お値打ちなレンガを購入して並べ、鉢植えの草花を乗せると形が出来た。
傍らで憩うのは陶の動物たち・・瀬戸の中学生の作品だ。


   今は1日の半分以上を機織りに費やし、染めた糸をどんどん消費して布という形にまとめる作業がある。
   2月から5月までの4ケ月で50枚の布を織り上げた。かってない集中力が出てきたのだ
   売るのでも人にあげるのでもないが、いつかまとめてどこかに寄付したいと思う。

   人との付き合い方も変わっていくだろう。
   これまで多くの人と適当な距離を置いてのお付き合いだったが、それはもういいかと・・・。
   両手の指で足りるだけの人でいい、丁寧な付き合い方をしていきたいな。
   
   ギャラリー巡りもやめ、脈絡のないコレクションもやめた。
   手元に置きたい作品の志向がはっきりしてきたので、別の形でのコレクションを考える。
   自身の鑑賞眼が心もとないので、自分でも描きながら高めていくようにデッサンを始めている。


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2020年01月01日(水)

    新年になって一日しか経っていないけど、2019年はいろいろあったなあ。

    6月は初めての企画展「もしも色がなかったら・・光と影の世界へようこそ」を6人の作家で展示、
    ギャラリーいっぱいにモノクロの世界を表現できた。

    しかし7月になって家族(夫)に異変が起きる。レントゲン写真で肺に白い影が映り検査入院した。
    9月には「肺がんステージⅢ」と宣告され、どんな治療が可能なのか?
    ひどく痩せていて体力がないこと,78才という年齢のため、放射線治療しか選択の余地なしだった。
    9月~11月の3ケ月は平日の午前,午後と地元の愛知医大に通院付添に追われる。
    息子二人も付き添いに協力してくれたのは心強かった。

    癌という病は夫にショックを与え、一時は認知症の様相をもたらした。
    記憶がひどく曖昧になり、昨日の事だけでなく、先ほど話したことも忘れてしまうのだ。
    困り果てて地域の介護支援センターに相談し、市役所経由で「介護1」と認定される。
    夫の肺がんの症状として夜中に咳が続き、私も眠れなくて困った末に善後策を考える。
    介護ベットの導入後、ベットの角度を肺に負担がないように変えてみた。
    少し呼吸が楽になったというので、私は別の部屋に寝ることにした。(現在に続く)

    行先が見えないこの時期を乗り越えることができたのは、2つのことを平行したからだと思う。

    まずは、10月の企画展「4人の軌跡を辿る作品展・・子育てしながら制作を続ける」を遂行したことだ。
    ながくてアートフェスティバルの期間と重なり、多くの来場者に恵まれて忙しく過ごすことができた。
    もう一つは1年余続けてきた声楽の個人レッスンを週一回休まなかったことだ。
    愛知医大に行く前の30分を思いっ切り声を出し、少しずつ歌えるようになったのは嬉しい。     
     


12月に完成した半屋外アトリエ

ここから庭に続く開放感


   
   夫の肺がんは放射線照射が効いてかなり縮小したが、痩せていることもあって体力は回復しない。
   これまでのような生活ができないのは仕方ないが、本人はよく愚痴を言う毎日だ。
   癌という病は家族にとってずっと付きまとうが、癌と共存していくより仕方がないだろう。
    
   私は少し距離を置いて暮らすことで、自分の位置を確認しながら進んでいこうと考える。


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2019年09月10日(火)

  この夏の終わりに 一冊の画集に出会った。
  一人の画家が30年近くもテーマにした 一人の女性とその暮らし を描いたものである。
  
  この画集を見たその夜、心の奥深くに沈んだ興奮?のためか 私は一睡もできなかったのだ。

  代表作「クリスティーナの世界」に登場するクリスティーナは、
  画家ワイエスの別荘の近くに住んでいた オルソン家の女性である。

  生来病弱で孤独に育ったワイエスは、このポリオで足が不自由な女性が、
  何もかも自分の力でやってのける生命力に感動した。
  そして、出会いの時からその死まで 30年に亘ってこの女性を描き続けた。


クリスティーナの世界 1948年 テンペラ画

アンドリュー・ワイエス


  ワイエスは1917年、ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードに生まれる。
  心身ともに虚弱であったワイエスは、ほとんど学校教育を受けず、家庭教師から読み書きを習った。

  絵の師は著名なイラストレーター(挿絵画家)であった父親(N.C.ワイエス)である。
  ワイエスは自宅のある生地チャッズ・フォードと、別荘のあるメーン州クッシングの2つの場所以外には
  ほとんど旅行もしなかった。
  彼の作品のほとんどすべては、この2つの場所の風景とそこに暮らす人々とがテーマになっている。


晩年 長い髪を切った

終生 姉を支えた弟


クリスティーナの部屋



 これまで 有名な画家たちの実物を見ても画集をめくっても、興奮や感動を覚えた経験が乏しかった。
 でも この画集はすごい! 1日目の夜は 一睡もできなかったもの。
 オルソン家の姉弟(74才で死去)と、その人生を描き続けた画家(91才で死去)がここには確かに生きている。

 青春18切符を二枚使った二日続きの図書館通いは、JR多治見駅に近い「多治見市立図書館」です。
 美術や陶芸関係の蔵書は、ここへ引っ越したい!と思うくらいの数と内容でしたよ。


オルソン家の外観


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2019年06月19日(水)

    バブル崩壊後に就職後2,3年で辞めてしまうと再就職は難しい。
    海外へ出て現地で働き口を見つけることはそれほど難しくはなかったようだ。
    
    タイにあった日本商社での現地採用員として働き始めた兄は、語学を生かして暮らしていた。
    給料は当時のお金で14万円ほどだったが、物価が安い国なので十分暮らせる額だった。
    しかし4年程経って突然「もう 日本に帰る」との連絡があり、仕事の当てもないまま帰国した。
    4年間一度も昇給がなく、ずっとその額に甘んじるのが現地採用の習わしだったとか。


二人三脚が始まった

とりあえずは親の家に住んでコンビニや様々なところで日銭を稼ぎ始めた。
弟が運営する行政書士事務所の業務を念頭に置き、試験勉強を開始する。
中小企業診断士という資格を手にして、各々の分野を担当することになった。

弟が狙いを定めていた産業廃棄物業者との付き合いが始まる。
30代前半は小回りが利くから、ネットでの営業を中心に飛び回っての営業だ。

前歴が多彩な産廃業者にとって若手の兄弟は気安く頼める存在にちがいない。
マンションの一室を事務所にして、兄弟で働き始めて10余年が過ぎた。
「今は食べていけるけど、決まったことをやるだけなので面白味はないな」と、また次の分野を見つけ始めている。
親の世代からは不安定に見えても、これが団塊ジュニアの生き方なんだろう。


  ※ このシリーズ書き始めたのは3年前でした。
    SMAPの解散が騒がれていた時から考えていた内容です。      

   「SMAP世代の働き方」はひとまず休み、また次の展開を待って始めます。
    断続的にしか書けなかったけど、読んでいただきありがとうございました。

       ※元SMAPメンバーの年下3人が古巣を離れるとの発表を知ったところ。
        年上2人も含めそれぞれが、どんな方向を目指すかこれから見守ることにしよう。
        馴染んだ仲間や組織から飛び出すのは、不安もあるけど違う未来もあるもんね。


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2019年06月06日(木)

    ブログ更新が1ケ月も間が開いてしまったけど、どこまで書いたかな?

    会社を辞めて自営業・行政書士(弟)への初めての依頼は、5万円で何とかの申請書を作ることだった。

    「士業」と呼ばれる税理士,司法書士,行政書士の仕事は、人の依頼に応じて書類を作成する。      
    事務的な内容の仕事だから依頼が多ければスタッフに任せることもできる。
    300種以上もある仕事内容だが、昔からの固定客をもっている先輩たちにかなうわけがない。
         


隙間にある分野は何か?

知り合いからの紹介は限りがあり、報酬はほんの小遣い程度である。
独自の分野で顧客を開拓するしか方法はないのだ。
その分野を探っているうちに他の同業者がほとんどいない隙間があった。

野放しの産業廃棄物が問題になり、認可を受けないと産廃業はできない規制が出てきた。景気低迷のために小さな運送業者が産廃業に転換したり、裏街道で暮らしてきた人たちの稼業になったりとか。
産廃業は荒っぽい仕事だけど、それなりに収入は悪くない。

業者たちが資格をとるためには、事務所を構えたお堅い先生は煙たいのだ。
若くて行動力のある行政書士に頼んだ方が気楽だったのだろう。
「先生」ではなく「兄ちゃん」と呼ばれて親しまれるようになった。


     
    それまでの「士業」のやり方はきちんとした事務所を構えて古くからの顧客や紹介された人が相手だ。
    行政相手の事務を司る仕事だから特に新しい分野を目指す必要性もない。
    顧客とは長年の付き合いと信頼関係があるので競争相手が食い込むのは難しい。

    そんな状況での新規開拓は、インターネットでHPを作り顧客を探すことから始まった。
    ネットで検索するのは20代,30代こんま40台前半が多い。
    他より少し安い料金設定と省力化した迅速な仕事を売りものにアピールする。

    こうして少しずつ顧客開拓と並行して、顧客との付き合いもまめにしていく。
    飛島村の泥付きの大根とか、金箔正入り正月祝い酒を夏にもらったりとかしていた。
    何とか食べていけるようになった時に、タイ商社の現地採用員だった兄が帰国してきた。  
                      此の続きは次回に・・・


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